大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和49年(ワ)5846号 判決

原告

井上豊

外二名

右原告ら訴訟代理人

中嶋郁夫

被告

山田康

右訴訟代理人

真子伝次

重松彰一

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告井上豊に対し金二六〇四万八四二二円、同井上順二、同井上智江に対し各金二〇〇万円及び、右各金員に対する昭和四九年七月二四日から支払済みに至るまで年五分の割合による金員を各支払え。

2  被告は、原告井上豊に対し、昭和四九年七月一五日から同原告の生存中、一か月金二万円宛を支払え。

3  訴訟費用は被告の負担とする。〈以下、事実省略〉

理由

一当事者間に争いのない事実

被告は産婦人科医師で、昭和四七年一二月ごろまで山田病院を経営していたこと、智江は同二九年三月一五日午前四時ころ、妊娠子癇のため生命の危険な状態で、訴外小田島頴医師の紹介により被告の病院に入院し、同日午前八時ころ、被告による腹式帝王切開手術を受けて豊を出産したこと、同三〇年(月日の点は除く)豊が脳性小児麻痺であると判明したことは、当事者間に争いがない。

二智江の被告病院入院と豊の出生について

原告らは、豊が脳性小児麻痺に罹患したのは、被告が、豊を出生後の約二時間、仮死状態のまま放置していたことによるものである旨主張するところ、〈証拠判断略〉。かえつて、豊の出生に関しては次のようなことが認められる。

1  智江の被告病院入院までの経緯

〈証拠〉を総合すれば、智江は昭和二八年一〇月二七日、訴外小田島頴医師の診察を受けたところ、同医師から、妊娠六か月で異常はなく、出産予定日は同二九年二月二一日ころである旨告げられたが、その後に同医師の診療を受けた同二九年二月一日には、多少むくみが現われ、妊娠中毒症初期の状態であつたため、その後は継続して同医師の診療を受けるようになつたものの、むくみはとれないばかりか、逆に増加する傾向にあり、蛋白尿、頭痛、高血圧等の症状も現われて、子癇発作の発生が予側し得るような状態であつたこと、しかし、右小田島医師は、妊娠中毒症の治療をしつつ、陣痛促進剤による自然分娩を期待して陳痛の発作を待つていたところ、智江は出産予定日を約三週間経過した同年三月一五日午前一時ころ、子癇発作を起こし、同医師が同二時ころ往診したときには痙攣を起こして意識不明、呼吸困難の状態で、最悪の場合は死亡の危険すら考えられたため、右小田島医師はそれを救うには帝王切開手術によつて胎児を娩出するほかはないと判断し、かねてからの知り合いで、設備、技術等の面からみて信頼できる被告病院に転送することとして、その旨連絡のうえ、同四時ころ、智江を被告病院に運び込み入院させたことが認められる。

2  智江の被告病院入院後の状況と豊の出生

〈証拠〉を総合すれば、智江は、前記のように生命の危険な状態で被告病院に入院したのであるが、入院後も意識不明で応答がなく、全身浮腫強度で特に下肢の浮腫が強く、硬直し、肩に痙攣が起こり、血圧は最高が一八〇、最低が九〇を示し、また胎児の心音は聞こえたものの一種の不安を感じさせるもので、分娩の兆候はなく、尿検査の結果からもいわゆる妊娠子癇の状態と診断し得るものであつたところ、被告は、かねてから子癇の研究等に携わつていたものであるが、智江の右状態からまず一般的な方法としての待機療法によつて母体の回復を計ることとし、痙攣を抑え尿量を増加させるマグネゾールの静脈注射、ブドウ糖、強心剤の注射等をし、頭痛を抑えるための脊髄穿刺、かつて自ら研究し子癇患者の死亡率減少に効果を挙げた蛭吸着等の治療を行つたが、いずれも効果なく、次第に心臓機能が衰弱して生命に危険な状態となつてきたため、腹式帝王切開手術を行うことにし、昭和二九年三月一五日午前七時半ころ、右手術(医者、看護婦が計七、八人立ち合つている)を開始し、同八時ころ豊を娩出させて、その約三〇分後、右手術を成功のうちに終了したこと、智江は、その後しばらく重態であつたが、徐々に回復し、翌日からは豊に母乳を与えることができるようになり、同月三〇日、健康を回復して豊とともに被告病院を退院したものであること、他方、豊は、右のように同月一五日午前八時ころ出生したものであるが、智江が約四〇日間、妊娠中毒症の状態にあつたため、羊水は強度に混濁していて、新生児豊は仮死の状態で娩出されたのであるが、仮死の程度は分類上重度である二度の仮死、すなわち心音は弱く、皮膚は蒼白で、筋肉の緊張もなく、呼吸停止等の状態にあつたので、被告は、直ちに豊を蘇生させるべく、内臓への吸引物を抽出して酸素吸入を行い、呼吸促進剤、強心剤などを注射するとともに、かねてから研究をし世間の評価も得ていた活法による人工蘇生術を施した結果、間もなく蘇生して泣き出し、その後次第に正常な呼吸をするようになつたこと、しかし、被告は、仮死状態の再発の可能性を慮つて、智江の右手術を続行しながら、同人の横に豊を寝かせ、心音や呼吸状態等に充分注意して経験上、もう大丈夫であると判断し得た後、念のため強心剤の注射をしたうえ、母体より離して智江の病室に移し、以後、何か変化が現われれば直ちに報告するように厳重に注意して、当時被告病院で付添看護婦をしていた高萩キミに付添わせたが、同人からはその後何らの報告もなく、また智江の手術終了後、自ら二度、病室に行つて豊の様子を見たが何ら異常はなかつたこと、豊は、予定日を三週間も経過して出生した割には発育が悪く、体重も約二七〇〇グラムの低体重であつたが、出生の翌日からは母乳も飲み始め、以後被告病院を退院するまでの二週間、一度も発熱、黄疸及び脳の刺激状態を表現するような不穏な状態がないまま推移したうえ、通常の体重曲線を描いて体重も増加し、智江とともに異常なく退院したことが認められる。

3  豊の被告病院退院後の状況

〈証拠〉を総合すれば、豊は、前記のように、昭和二九年三月三〇日、被告病院を異常なく退院し、その後、同年四月、五月の二度、同病院へ診療に訪れた際も特に異常は見当たらなかつたものであるが、その後、順二及び智江は、豊が生後七、八か月しても何も発音せず、目で物を追わないなどの異状のあることに気付き、同三〇年四月一三日、東京大学病院音羽分院で豊の診察を受けたところ、重症の脳性小児麻痺であるとの診断を受けるに至つたこと、一方、智江は同三一年二月六日、被告病院を訪れ、被告に豊が物は言わないし、立たない等を報告し、さらに同年七月三日、豊が脳性小児麻痺であることを報告したため、被告も初めて豊の疾患を知るようになつたことが認められる。

以上1ないし3の認定事実によれば、被告の智江及び新生児豊に対する処置ないし取扱いに誤りがあつたものとは認めることができず、したがつて、被告の右処置等が原因して、豊が脳性小児麻痺に罹患したものとも認めることができないのである。

三緑成会への入所について

次に、原告らは、被告が順二らを申し欺き、豊を緑成会に入所させたうえ、無断で股関節完全脱臼を理由とする右下肢切開手術をなさしめた結果、豊をして手術前よりさらに身体の機能を悪化等せしめるに至つた旨主張するところ、豊が昭和三七年四月ごろ、緑成会に入所したことは、当事者間に争いがなく、原告井上順二本人及び被告本人の各尋問の結果によれば、豊の右入所は被告の勧めによるものであり、豊は同年六月五日ころ、右股関節完全脱臼を理由とする右下肢切開手術を受けていることが認められるけれども、〈証拠〉を総合すれば、被告は昭和三一年七月三日、豊が脳性小児麻痺患者であることを知つてから原告らの境遇に同情するとともに、出産にかかわつた医師の善意から、豊を病院又は施設に入所させることが最善であると考え、友人又は知人を通じて右入所方に努力した結果、豊の緑成会入所が実現するに至つたこと、右緑成会は、児童福祉法による指定育成医療機関であるところ、身体に障害を持つ児童で短期間に治療効果が挙がり、その児童の生活改善の目的が達成される場合には国から補助金が出る仕組みになつているため、中野保健所は、豊の右股関節が完全脱臼しており、これを整復することによつて股関節の内転拘縮が防止できるとの緑成会の診断に基づき、豊に右下肢絆創膏牽引術を施すことを治療方針とする育成医療券を発行して同会への入所手続をとつたこと、その結果、豊は同年六月五日、同会院長多田富士夫医師の執刀による先天性右股関節脱臼に対する臼蓋形成手術を受け、同三八年一月二九日まで治療を続けたこと、多田医師の右手術は成功し、現に豊の右下肢の内転拘縮は防止され、排泄の始末及び体位変換の困難性等を増大させずに済むのに役立つていること、被告は、豊の先天性股関節完全脱臼を豊の緑成会入所後に初めて知つたものであり、緑成会とは特別な関係にあるものではなく、また右多田医師と友人又は知己の関係にもなく、緑成会の治療方針及び内容についても全く知らず、またそれに関与できる立場にもなかつたことが認められ、原告らの前記主張はこれを認めることはできないのである。〈以下、省略〉

(丹野益男 大内俊身 出口尚明)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例